LINEA 2022.8.8
吉野美奈子
長編インタビュー
日本語全訳
美術史研究家・ステファニー・カシディ(多数の著名なアーティストを輩出 してきたThe Art Students League of NYリサーチ&アーカイブ部責任者)による吉野美奈子への長編インタビューです。
Artist Snapshot: MINAKO YOSHINO
Interview with Stephanie Cassidy
"もし、あなたの夢と情熱を信じてくれる友達が、世界にたった一人でもいれば、
私はそれで十分だと思う"
*このインタビューシリーズでは、アーティストの心と習慣を 25 の質問で探ります。
1)アーティストになろうと決心したのは何歳の時ですか?
決心はしていません。
「気がついたら美奈子はいつも絵を描いていた」と母が言っていました。 私は歌もダンスも大好きでしたが、父は銀行員で、そのような職業で生計を立てることは非常に厳しいと考えていて、サポートを得ることはできませんでした。そして、私はやりたいことを全部あきらめたのですが、25 歳の時、イタリア旅行中にローマで出逢ったミケランジェロの傑作『ピエタ』が、心に覚醒のベルを鳴らしました。私は、人生に一度は本当に好きなことを勉強したいと思い、お金を貯めて、誰にも言わずに、武蔵野美術大学に通い始めました。 それは自分が「アーティストになろう!」と決心したからではなくて、「ただ本当に大好きなことを勉強したかっただけ」だったのです。
2)アーティストになりたいと両親に話したとき、両親はどのような反応を示しましたか?
話ませんでした。
卒業後、私は自分のアートとどのように生きていけば良いのかわかりませんでした。 アートで生計を立てている人なんて一人も知らなかったし、東京で答えを見つけることは不可能に思えました。 しかし「ビジュアルアート(視覚芸術)に国境はないのだから、ミケランジェロの『ピエタ』が私に語ったように、真の芸術なら言葉を介さず、観る人の心に語りかけるはず。ニューヨークに行けば、何か答えが見つかるかもしれない」 と思い、再びお金を貯めて、2001 年に渡米しました。両親はショックを受けてしまい、 父はただ、「貯金が無くなったら、帰って来なさい」と言っただけでした。
3)お気に入りのアーティストは?
ミケランジェロと斎藤誠治先生。
この二人のマエストロが、私の人生を変えました。ミケランジェロは、私を芸術の世界へと導き、2002年、石彫家でアート・スチューデンツ・リーグ(以下リーグ)のインストラクターだった斎藤誠治先生と出逢いました。初めて誠治先生の大理石の彫刻群を観た時、私は作品の美しさの背後にある技術と知識に圧倒され、「本物の石彫家だ!」と感激しました。誠治先生は、1961年に日本からニューヨークに来られて、初期の数年間イサム・ノグチ氏のアシスタントを勤め、1998年からリーグで指導しておられると言われました。
私は画家で、ミケランジェロの彫刻は大好きでしたが、彫刻家になるつもりは全くありませんでした。ところが、ダウンタウンの建設現場でゴミ箱に捨てられていた大理石を大量に見つけ、可哀想になってしまい、この石たちをリーグに寄付したいと考えたのです。しかし誠治先生は、「輸送費と保管費を負担する余裕がないので、リーグはこの寄付を受けられないでしょう」と言われました。そして、呆然としている私に向かって突然、「美奈子さん、あなたが自分で大理石を彫ってみたら良いじゃない?」と言われたのです。
誠治先生の勧めがなければ、私は決して彫刻家になることは無かったと思います。私が成長するために先生は様々な助言を下さいましたが、やがて日本のテレビで、「アーティストの吉野美奈子さん」と紹介されるまで、私は「自分がアーティストになった」とは夢にも思っておらず、「え?なになに?本当に?」とあわててしまいました。 それは、2005年に、ニューヨーク国連本部で『Earth and Humanity(地球と人類)』という、アートプレゼンテーションを発表した直後のことでした。
4)自分の作品とは違う、お気に入りのアーティストは?
チームラボ。
「おいおい、ミナコ、チームラボはアーティストじゃないよ!」と言う人もいるかもしれませんが、彼らは ウルトラテクノロジーを駆使した国際的なアーティスト集団です。 メンバーには、プログラマー、エンジニア、数学者、グラフィック アニメーター、芸術、科学、技術、自然を統合するプランナーたちが含まれており、 私の作品とは全く異なるクリエイションをする人々なので、「いつかコラボレーションができたら良いなぁ」と思っています。
5)これなしでは生きていけないアートブックは?
ひとつは『ミケランジェロ: ピエタ・ロバート フプカ撮影』。
2002年にリーグで大理石彫刻を学び始めたとき、友達から届いたプレゼントで、以来、私の彫刻バイブルとなりました。そこには、 私たちがリアルには決して目にすることの無いさまざまな角度が含まれていて、とても頭を柔軟にしてくれます。 どんなプロジェクトにも、どこへ行くときも、私はこの本を持参します。
もうひとつは『風の谷のナウシカ』です。 「おいおい、ミナコ、ナウシカはアートブックじゃないよ!」と言う人もいるかもしれませんが、これは、 世界的に有名なアニメーション監督・宮崎駿氏による漫画(グラフィックノベル)で、 宮崎さんは13 年の歳月を費やしてこの物語を完成させました。 そこには、今日の人間社会に対する重要なメッセージが含まれており、 8か国語に翻訳され、私は日本語版と英語版を持っていて、何度も何度も読み返しています。ナウシカが今日の私を作り、『アートで私が達成したいこと』に気付かせてくれました。
6)最も尊重するアーティストの資質は何ですか?
独創的な創造力(自分自身の真実)・鍛えられ洗練された技・継続する精神力。
現代アート界では「技」を軽んじるところがありますが、私はアーティストが持つべき根源的な資質だと考えます。 ある時、アートディーラーが「ミナコの作品は、現代アートのマーケットには良過ぎるよ」と言いました。 しかし、自分の魂にとって「偽物」と感じるものに時間を費やすには、人生は短過ぎると思いませんか?
7)スケッチブックにいつも描いていますか?
YES。
アイデアを描いたり、書道をしたり、詩を書いたりします。 私の作品の殆どは、これらの書と詩から始まります。 色々な種類のスケッチブックを持っていますが、お気に入りは 6 x 6 インチ サイズの「ファブリアーノ・アーティスト・ジャーナル」で、リーグのアートストアで見つけました。 木炭や筆遣いによく合う素敵な質感と、様々な色の紙が大好きで、旅行中もラップトップバッグに収まる丁度良いサイズです。2014 年にモニュメント・コンペで選抜された後、ニューヨーク近郊の公園や庭園のパブリック アート(公共芸術)制作を始めました。これらのプロジェクトでは、しばしば海外出張が必要で、ファブリアーノと 13 インチの MacBook Airは、どこへ行くにも私のお供です。
8)世界で一番好きな美術館は?
ニューヨーク・メトロポリタン美術館。
メットは私の永遠の学校です。ニューヨークで深刻なパンデミックが発生している間、私は日本に足留めされていました。「ニューヨークで一番恋しいものはなんだろう?」と考えると、メットが頭に浮かびました。そこにいると、私は自分の家にいるように感じます。美術館を訪れて素晴らしい作品を鑑賞することは、作品を制作することと同じくらい私にとって不可欠です。
9)これまでに行った最高の展覧会は?
『クリスチャン ディオール: 夢のクチュリエ』2021 年ブルックリン美術館。
ファッション展でしたが、それ以上でした!200 を超えるオートクチュールの衣服、ディオールの注目すべき素晴らしい素描の数々、写真、アーカイブビデオ、香水のエレメント、アクセサリーなどが展示され、ダイナミックな空間ながら、丁寧に作り上げられていました。展覧会全体の構成が非常に印象的で、私は映画の中にいるような気分でした。(日本では2022年12月から2023年6月東京都現代美術館で開催予定。)
10)もしアーティストでなかったら、何になりたかったですか?
ダンサー。
十代の頃の夢で、「ダンスを勉強するためにニューヨークに行かせてほしい」と両親に何度も頼みましたが、「ダメダメ」と言われ続けました。でも、今なら私は解決策を知っているので、 十代の頃の私に言ってあげたいです。「許可をもらう必要なんてないよ!自分でお金を貯めて、実行すれば?」しかし、古い友達は私を笑って言いました。「美奈子、アーティストになって良かったね〜。ダンサーなら今頃もう引退だけど、アーティストの人生は長いからね!」
11)クリエイティブな開発時期の初期に、影響を与えた芸術的な人々は?
両親です。
(二人は私がアーティストになることを望んではいませんでしたが!)
父はよく私を美術館に連れて行ってくれました。歌も踊りも上手で、 9歳の時、一緒に『ウエストサイドストーリー』を観ました。それは私にとって初めてのアメリカ映画で、一気にニューヨークに憧れました。母はファッションデザイナーで、人物の描き方や色づけ、折り紙や粘土を教えてくれて、一緒にお洋服もデザインしました。 私は15歳になるまで、ずっと母が作ってくれたオーダーメイドの洋服を着て育ちました。
両親と師匠の誠治先生までの間に、武蔵野美術大学で出会った大切な友達がいて、アートを続けるよう私の背中を押してくれました。初めて会った頃、彼は、世界中で私のアートの力を信じてくれるたった一人の存在でした。だから、もし、あなたの夢と情熱を信じてくれる友達がたった一人でもいれば、私はそれで十分だと思います。
12)美術学校で学ぶことができず、「学べたら良かったのに」と思うことは何ですか?
アーティストとして生計を立てる方法。
もともと、私はこの答えを見つけるためにニューヨークに来ました。今日、リーグでこのようなワークショップや講義が行われているかどうかはわかりませんが、私が学生だった頃には聞いたこともなく、受講したこともありません。でも、誠治先生が一つだけ大きなヒントをくれたので、私は前に進むことができました。それが一体何だったかは、少し長くなるので、いずれリーグで講義するときにお話ししましょう。
13)最もよく鑑賞する芸術作品とその理由は?
ミケランジェロのピエタ、ともう一つ。
この作品と初めて出逢った日のことを思い出すからです。人間がこのような絶対的な美を生み出すことができるとは信じられませんでした。でも、実を言うと、人生のほぼ毎分、『ピエタ』よりも多く観ている別の作品があります。それは、『シンフォニー・オブ・ユニバース(宇宙交響曲)』という全長5.5メートルの私の絵画です。この絵は私のスタジオにあって、とても大きいので、何をしていても見えるんです。私は、自分たちが無限の美しい宇宙の一部であると感じさせてくれるこの環境が、とても気に入っています。
14)アート以外の秘密の視覚的喜びは何ですか?
お料理。
スタジオに美しいカラーラ大理石で、「Earth Bar: アース・バー」というカウンターを作りました。アース・バーに来る友達はみんな「オーマイゴッド、ミナコ!ミナコの料理はまるでアートじゃないか!」と言います。私のお料理の「味」については保証できませんが、視覚的には印象派の絵画のように素敵ですよ!私は友達のために料理を作って、一緒に食事をすることをとても楽しんでいます。
15)スタジオで音楽を聴きますか?
いつも。
いつも!何をするにしても、音楽を聴いています。朝はクラシックピアノとバイオリンの音楽から始まり、スタジオを掃除しながらジャズ、ポップス、オペラ、ダンス、夜は瞑想音楽。多くのジャンルを聴きますが、お気に入りの ひとつは、グレン・グールドによるバッハのゴールドベルク変奏曲です。 唯一、音楽を聴くのをやめたのは、2017年にハーバード大学で「都市デザイン」を勉強していた時です。あまりにも難しくて、毎日22時間、限界まで勉強しました。私はその最終論文『都市デザインとパブリック アート』を、日本のプロジェクトのプレゼンテーションに使用したかったのです。音楽を諦めるのはつらかったですが、その甲斐はありました!
16)最後に訪れたギャラリーは?
サンドラム・ タゴール・ギャラリー(ニューヨーク・チェルシー地区)
数少ないお気に入りギャラリーで、先週訪問しました。10年前に初めて、日本画家の巨匠・千住博さんのオープニングナイトに伺い、そこで私はスカーレットという素敵な女性に会いました。私たちはワインを飲みながらお喋りを始めて、スカーレットは私を千住さんに紹介してくれました。千住さんは私の大理石像の写真を見て「美しいですね〜!!」と言われ、私は無邪気に大喜びしてしまいました。その後、スカーレットはリーグでの最優秀作品展を含む私の展覧会に来てくれて、私の作品の最も重要なサポーター兼コレクターの 1 人となってくれました。
17)過小評価されている注目すべきアーティストは誰ですか?
国吉康雄。
2003年ごろのある日、誠治先生が満面の笑みで私に言われました。「美奈子さん!リーグのカタログに、クニヨシを名誉会員として掲載するよう、学長にお願いしたよ!」私は日本の美大で美術史を学んだにもかかわらず、クニヨシのことを良く知りませんでした。20世紀前半、彼はリーグの学生でありインストラクターでした。 1906年、17 歳で日本から渡米し、1920年代のニューヨーク美術界で頭角を現しました。やがて2 つの世界大戦の間、米国で最も尊敬されるアーティストの 一人になりましたが、その後どういうわけか、忘れられてしまったのです。
2015 年、スミソニアンアメリカ美術館はクニヨシの大回顧展を開催し、日本のテレビ局が、ブルース・ドーフマン(元クニヨシの学生で、現在はリーグのインストラクター)のインタビューに来ました。私はこの撮影を手伝っていたおかげで、ブルースととても仲良くなりました。
それから1年後、日本で開催されるクニヨシ展のプロデューサーから、クニヨシの作品「Little Girl, Run for Your Life(少女よ、自分の命のために走れ)」(1946年作)にちなんで、一枚の絵を描いてほしいと依頼がきました。私は、クニヨシが使用していたカゼインという画材を使って、自分の解釈に基づく「Little Girl, Run for Your Life (2016)」 を制作しました。この2点は、2016年、横浜そごう美術館のクニヨシ展で紹介され、彼の功績を現代に伝える試みがされましたが、それは絵画誕生から70年も後のことでした。
18)これなしでは生きていけない画材は?
木炭と練り消しゴム。
2001 年、小さなスーツケース一個と私はニューヨークにやってきました。 持ってきた画材は「木炭と日本製の白い練り消しゴムひとつだけ」だったけど、それがニューヨークでたくさん奇跡を起こしてくれました。だから、今、もし全てを失っても、これさえあれば再び始められる自信があります。 また、リバーサイド・パークの モニュメント・デザインの承認を得るために、ニューヨーク市にプレゼンテーションする必要があったとき、グレッグ・ワイアット先生が言いました。 「ミナコの木炭画は十分に力がある。 Photoshopは必要ない。」 誰もがPhotoshopで画像を作っているのに「私だけ木炭画?」と耳を疑いましたが、グレッグは正しかったのです。 審査員全員が木炭画を絶賛してくれました。それ以来、パブリックアート・プロジェクトの全てのプレゼンテーションに木炭画を使用して、これまでに一度も失敗したことはありません。
19)毎日絵を描いたり、彫刻したり、アートを制作しますか?
YES。
現代のアーティストの仕事は多様だと思います。私の制作の中には、絵画や彫刻だけでなく、ウェブサイトのデザイン、コンセプトやプレゼン、プロポーザルの作成、エッセイ、書籍の執筆、技術者/専門家とのコミュニケーションなど様々な要素があります。
2019 年、私は 四人のイタリア職人と、イタリアのカッラーラで 25 トンの大理石を彫っていました。そこへは、石の彫り方を知らない多くの有名なアーティストたちが「彫像を注文するために」やってきます。最近では、誰もがロボットを使い始めているのですが、私はどうしても人と制作したいと思っていました。現地では、私はアーティストであり、アートディレクターですが、最初は、職人チームが、私のことも「彫刻できないアーティスト」だと思い込み、まるで「赤ちゃんのように」扱うので、かなりの挑戦となりました。しかし、誠治先生から伝授されたダイレクトカービング(直彫)の実演を見せたところ、みんな心から尊敬してくれて、夢みていた彫刻制作のドリームチームが生まれました。そして、自分の表現したい線や面の作り方を彼らに伝えながら、みんなで一緒に彫り進めてゆき、その結果、完成したモニュメントは、熟練かつ洗練された人の手から生まれた、温かで有機的な素晴らしいフォルムとなりました。このような場合、ドリームチームの編成は、私の彫刻制作の大前提であり最重要基盤です。ですから、クリエイターとしてのアーティストには、様々な種類の創造的タスクがあると思います。
20)アートをせずに過ごした最長の時間は?
七日間。
2019 年 6 月。イタリアのカッラーラにある採石場で、次のモニュメント『富山ラバーズ』に最適な25トンほどの大理石を探していたところ、東京にいる弟から緊急電話が入りました。父は闘病中で、弟は「後二週間も生きられないかもしれない」と告げました。私は看病のため日本に帰国していたばかりで、まさかこんなに早く容態が悪くなるとは想像もしておらず、しかし、とにかく一番高い航空券を購入して、大急ぎで富山に戻りました。病院に駆けつけると、ドクターは静かに「できる限りのことをしました。もうこれ以上は打つ手がありません」と仰いました。
私たちは、父をVIPルームに移動することにしました。そこは、富山の自宅の雰囲気と似ていて、大きな窓、素敵なカーテン、清潔なキッチン、綺麗なバスルーム、テレビ、ソファー、テーブル、椅子などがあり、壁には 父のお気に入りだった私の絵画 『光』を飾って、ベッドの側には小さな『ラバーズ』の彫刻を置きました。
私は毎日24時間、父に付き添うことにしました。そして、かつて父が私たちのためにしてくれた楽しいことを、全部しようと決めて、『ティファニーで朝食を』や『ローマの休日』を観ながら一緒に朝食をとったり、たくさんの友人や親戚を招いたり、最高のお寿司のディリバリーでカラオケパーティーをして、父は歌い、手で踊り、大好きなお寿司を楽しみました。みんなが家に帰ると父は、「美奈子、仕事が忙しいのに、帰国させてごめんね。」と言いました。私は、父がいつも、私が日本に戻ってくることを望んでいたのを知っていたので胸が痛くなり、「パパ、私は地球のどこにいても仕事ができるから、平気だよ!」と元気に言ってみせました。
父に仕事の心配をさせたくなかったので、私はベッドの隣で粘土を使って、富山の『ラバーズ』モニュメント最終模型を創り始めました。私が制作を始めたので、父は安心したように「どこにいても、ここにいても、天国にいても、いつでもちゃんと観ているからね…。美奈子、ありがとう」と言いました。カッラーラを離れてから、父の病室で粘土を始めるまでの七日間、それが、アート無しで過ごした最長の時間でした。
21)創作の閃きが消えた時はどうしますか?
一度もありません。
アイデアが多すぎて、創りたいものすべてを実現するには人生が足りないと思っています。
22)あなたの創作意欲を駆り立てる質問は?
人と社会のためにアートに何ができるのか?
アートで世界をつなぐためには?
2001 年 9 月 11 日、ワールドトレードセンターで起こった同時多発テロ直前に、私はニューヨークに来ました。当時参加したプロジェクトがグランドゼロに近く、ビルの崩壊を目の当たりにして、現実を受け入れられずにいました。自分が「何の役にも立たない存在」のように感じて、毎日毎日ただ泣いてばかりいました。それ以来「圧倒的な惨劇に見舞われた人々のために、いったいアートに何ができるのか?」「分断された社会をつなぐため、アートをどのように活用すれば良いのか?」をずっと考え続けてきました。私はアートが本当に大好きだったので、アーティストになりました。でも、自分のために創作しているだけでは足りないと思っています。『平和のビジョン』を共有し、世界をつなぐために創作したいのです。
「夢みたいなこと言って」と思われるかもしれませんが、ジョンとヨーコが『イマジン』で歌ったように、アーティストなら『今日、存在しない平和』を思い描くことのできるドリーマーでなければならないと思っています。
23)アーティストにとって最も重要な資質は?
自分自身と世界に対する真実。
24)アートでまだ達成できていないことは?
ラバーズ・グローバル・コネクション
(『ラバーズ』モニュメントによる世界規模のつながり)
2014 年、ニューヨーク市のリバーサイド・パークに、最初の『ラバーズ 』モニュメント (275cm高) を制作しました。本当は、本物のカッラーラ大理石で彫りたかったのですが、受賞した助成金では予算が足りず、苦肉の策で大理石粉を調合し、鋳造像を作りました。数年後、故郷富山県の皆さんがこのモニュメントを観て、今度は本物のカッラーラ大理石で、富山駅北口に設置する『ラバーズ』モニュメント (345cm高) の制作依頼をくださいました。設置委員会は 5,000 万円をファンドレイズし、私をイタリアに送り出してくれました。それは、父を亡くした2019年のことでした。
私は、『ラバーズ』モニュメントを通じて、グローバルなつながりを作りたいと思っています。現在、東京都のある区と『東京ラバーズ』設置の可能性について話し合っています。また、広島大学院生の神田実鈴さんと一緒に、広島市に対して『広島ラバーズ』を提案しました。未来には、ワシントン D.C. や、ベルリンにも設置したいと願っています。アートが人間社会の役に立つことを、私は証明したいのです。
25)ソーシャルメディア時代におけるアートにとっての最大のメリットは?
アーティストとサポーターをつなぐスピード。
2014 年、初の『ラバーズ』モニュメントを制作した時、その周りに1000個 の愛のメッセージを置いて祝福したいと考えました。リーグの地下にある石彫スタジオの前に『1000個の愛のメッセージステーション』を設置し、同時にTwitter、Facebook、YouTubeで世界中の人々に呼びかけました。最終的に、63の異なる言語で 1000通を超える愛のメッセージが集まり大喜びしたと同時に、私はソーシャルメディアの力にとても驚かされました。
ソーシャルメディアの最大のメリットは、人々をつなぐスピードだと思います。しかもそれは一方向ではなく、インタラクティブに発生します。そのため、『1000個の愛のメッセージ』プロジェクトでも、私は視聴者の考えをリアルタイムで知ることができ、とても多くの重要かつ多様な人々と、瞬間的につながってゆきました。ちょうど「今」のように、あなたは私のインタビューを手持ちのデバイスで読んでいて、次はGoogle または ウェブサイトをチェックし、私の Instagram、Facebook、Twitter、YouTube など全てのリンクを見つけるでしょう。こうして、たった数分の間に、私たちはつながることができるのです!
アーティストの作品に対する鑑賞者の反応は、『花にとっての水』のようなものです。「美奈子さんの作品が好き!」というたった一つのコメントが、今日もアートを続けるエネルギーをくれます。私のアートは『愛と平和のビジョンを伝えるツール』ですが、ソーシャルメディアは、その目的を様々な方法で拡大してくれています。
LINEA
Artist Snapshot:MINAKO YOSHINO
Interview with Stephanie Cassidy, historian, editor & documentarian
ASLアートジャーナルLINEA (2022.8.8発行)
英語記事原文:https://asllinea.org/minako-yoshino-interview/